フォースの覚醒について-1

年末までに「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を3回(2D、IMAX3D、4DX)を鑑賞してきた。一般的な映画作品もそうだが、やはりこの作品世界はとりわけ情報量が多く、また映画をとりまく状況そのものといったメタ的な情報も膨大。そして公開前の箝口令の反動から現在進行形で新しい情報が続々と発信されているので、自分のためにもその都度感じたことや個人的な作品解釈などを適当にまとめて書き留めていこうと思い立った次第。だからちゃんと一つのエントリとして成立させる意図はないです。

作品の評価

SWの新作だから当然のように賛否が様々あってそれらはどちらも耳に入っている。それはそれでいいとして、個人的には今作への評価は極めて高い。その背景としてはEP1で感じたモヤモヤしたものがあって、それが今回はほとんど無かったから、ということが挙げられる。評価の基準点がそこだったりするから「JJよくやった」と思うよりない。いや実際EP1はダース=モールの造形とか立ち回り含めて秀逸だったり、クワイ=ガンとオビ=ワンのキャスティング込みの存在感とか全然悪くないんだけど、「イウォークで批判されたのにまたやらかしやがったなジョージ!」というのがありまして。ダグ・チャンのこととかもね。

今作は前提としてルーカスが製作に全くタッチしていないということがあり、なおかつ監督はJJなのだから期待通りでありまたそれ以上でもあったと思う。SWの根幹はルーカスが言う所の「メロドラマ」であってSFだったりファンタジーだったりは仕掛けに過ぎないのだけど、ルーカスはその仕掛けの部分に優れてはいるがどう考えてもドラマの方は本当にダメ。でもそういう個性ゆえに作品全体としては変わったものになるわけで、結果としてこのようなとんでもない作品群が出来上がったのだからそれは素晴らしいと思う。しかしこちらとしてはキャラクターの内面の表出だったり描写のアイデアなどの映画的な要素がこのシリーズに欠けていたと感じていたので、そこを埋めてくれた今作はなんと泣ける仕上がりになっていると思う。

その他にも3Dの使い方やIMAX撮影シーンなどのアイデア、両陣営の戦闘機が高い機動性でドッグファイトをする気持ち良さとか、新しい映像技術を使ったエンタメ要素でセンスが良いSWというのはオリジナル以来で、プリクエルではその要素は感じられなかったものだ。そういうセンスの良さが最も凝縮されたのがBB-8だろう。あの愛らしさはいったいなんなんだ?あれを生み出すセンスがジョージには無いことは言うまでも無い。新三部作であるシークエルではそうしたエンタメ部分での楽しさはすでに担保されたように感じている。革新性は無いにしても。

SFという仕掛けの部分で気に入ったのは。
タイファイターが砂に自重で沈んで爆発、愛らしいBB-8の重量感の描写、スターキラーの爆縮など、物理面で考えられたシーンがちゃんとあったこと。

気に入らなかったこと。
スターキラー基地の超兵器がどう考えてもおかしい。新共和国の惑星群との距離とかどうなってんの‥‥攻撃されるホズニアン・プライムから他の惑星が同時進行で見えていて初見では違和感があったがそれは同一の惑星系ということだからまあアリだけど、時空を超える超強力ビームとかは流石にやめてくれ。またミレニアム・ファルコンがスターキラー基地に侵入する方法として光速航行のままシールドを超えて急減速で不時着、しかも手動!はあ?てなるアイデアとかは酷い。それが出来るなら光速航行付きのミサイルでシールドの意味は無くなるということになるよ。この辺のハッタリは流石のJJだなと。

過剰とも思えるオマージュの連続は批判の対象だけれども、作家性のないのが作家性であるJJが監督する以上こうなるしかない。オリジナルへの敬意を十二分に払いつつ、ファンの新規開拓のミッションも課せられた製作陣が出した答えが今作なのだろう。配慮が過ぎると軽薄に感じられることもあるが、つまりそれは良く出来ているということでもあると思う。主要キャラクターに共感できてかつ魅力的であるSWは個人的には大好物だ。

ちなみにダニエル・クレイグが拘束シーンで出演していたのは007を観ていれば笑えるところ。

注目した台詞

“I will finish, what you started.”
これはカイロ=レンが崇拝しているベイダーの遺品(溶けたマスク)に向かって言う台詞で、一義的にはシスの偉大な先達でありまた祖父でもあるベイダーが始めたことを自分が完遂せんとする宣言であり祈りのようでもある。カイロ=レンはこの下りの前に「光の誘惑を感じました」というような告白があったので完全に暗黒面に落ちているわけではないことを示唆している。
この揺れ動く青年のことは別項にて触れるとして、さてこの台詞。予告編でも使われていて本編でも素直に使われていたのだけど、本編を観た初回のときにこの台詞の意味がさらによく理解できた。この台詞の本来の意味(意義)はつまるところ、”I”はこの作品の監督であるJJであり続編の監督になるライアン・ジョンソンやコリン・トレボロウであり、またその周辺の中心メンバーのことで、”you”とはまさにジョージ・ルーカスその人なのだろう。だからまさに「ジョージ、あなたが始めたこのSWを私(達)が引き継ぎ、そして終わらせます」という宣言なのだ。(ディ◯ニーに終わらせる意思が本当にあるかどうかは別)

ルーカス本人もSWの成功によって自ら築き上げたルーカスフィルム(いわば帝国)で絶大な権力と富を得ているが、プリクエルでは批判にさらされており、その後も関わった映画では評価は低い。少なくとも作家としては「終わった」感があるのは現状否めない。しかし新しい世代の旗手とも言える作家の一人であるJJはルーカスを崇拝していてその精神を引き継ぎますよとここで宣言したのはとても興味深いし感慨深くもあった。批判している層は「引き継ぐってこういうことかよ」と言うんだろうけども、個人的にはグッとくる台詞だし上手いなと思う。
あとルーカスがベイダー(闇)だとしたらカイロ=レンが誘惑される「光」とはディ◯ニーのことなのか、とか考えるとさらに面白いんだけど、まあそれはいいだろう。どっちが光なのかどちらも闇なのかとか、そもそもディ◯ニーこそが帝国だろうとかね‥。とにかくこの台詞はメタ的な意味でも示唆に富んでいて好きになった。

長くなったので各キャラクターについてはまた次項。

May the force be with you.

『インターステラー』感想

年をまたいで2回鑑賞しました。初見はIMAXで、次は通常のスクリーンで。通常でも近くのTJOYは音響でこだわっている印象なのであの低音が効果的に響いて良かったと思う。その間にはノベライズも読んでます。

初見の3時間はその長尺を感じさせない密度で、大作にしたらハードな内容だから思索に追われることになるので楽しく観ることができた。こういう作品の細部を捨てればその魅力のほとんどを失うでしょうし個人的にこのSFの世界観は極めて好みに則したものだったのでどっぷりと浸れましたね。キーワードとしたら「2001年宇宙の旅」「2010」「2001夜物語」「星野之宣」「ハインライン」「未来からのホットライン」「コンタクト」「ライトスタッフ」という感じ。全部大好きなのでノーラン先生との距離が縮まった気がします。これらについてはやはり言及しているエントリがいくらもあるようなのでまあいいかと。

ノーランと言えば独特な作品世界をいちいち設定してなおかつ破綻させないという印象。『メメント』を当時シネテリエで観て以来、監督作は全て観てるし本当に安定したクオリティで外れがない作家です。その特徴がイヤ、という層も少なからずいるかと思いますが‥。

では、ネタバレ含みます。公開終了直前だし時期的には問題ないと思いますが。

初見での感想としては傑作であるというよりもまず「好物」であるということでしたね。理由は先述のとおり。近未来の地球が世界規模で危機的状況にありその解決策として先端科学に目を向けるという構図はひと昔前のSF映画ではありがちなもので、同年代のノーランがそれらを意識したのは間違いないでしょう。あえてレンズフレアを宇宙空間のシーンで使っていたのも懐古趣味の表れみたいだし、フィルムにこだわるのもそう。そこに新味として外宇宙に人類が到達するためのワームホールという概念を持ち出すのは「コンタクト」にも携わっていたキップ・ソーンが今作も関わっていたからかもしれないが、今作のノーラン的仕掛けと言える“重力”と“時間”を作品世界の軸にしたのは新しいと言えるかも。SF小説では使い古されていると思うけど。ダークマターや重力波、膜宇宙など既知の宇宙論に関心がある人ならそういう仕掛けで考えさせられたりもするだろう。「ワームホールがなぜあのように見えるか」の説明をちゃんとやるのもよかったです。

本音としてはガルガンチュア(特定のブラックホールの名称)の影響下にある惑星系を候補に入れる、というのはツッコミどころではあるのだけど、それをしないとドラマが生じないことになるのでスルー。ミラーやマンが目標の惑星をロクに軌道上から探査もせずに着陸してしまっているのも、喫緊の問題が迫っている上に相対的な時間の流れが違っているからドカンといってみたんだね、と慮ることもできる。よってスルー‥。結構大きなツッコミどころとしては「天才」とされているマンをマット・デイモンが演じているということなんだけど。彼がとても才能のある人だとは知っているが、見た目のことや『チーム★アメリカ/ワールドポリス』での扱われ方とか知ってるから、先入観が完全に邪魔しましたね。

後は「彼ら」があの回廊のような空間にクーパーを導いたのは何故かということについて。これは考えすぎても意味のないこと(パラドックス)かもですが、とりあえず理由があったとしてそれを妄想するとこんな感じ。
あそこまでのお膳立てができる「彼ら」であれば直接出来ることがあったかと。なのにクーパーを介してマーフにアナログな手法で伝える
形式をとったのはそこに“愛”がないと時間を越えた接点を作られないから。何を言ってるんだ、という感じだけどこのことについては劇中でアメリアがその可能性を述べている(つまり伏線)。初見ではそのくだりで「何か変な方向に行きそうだな」とも思ったけど、つまるところそれ(愛)がテーマの核だったのですね。もっと言えばクーパー(とTARS)が自己犠牲によってアメリアをエドマンズの星に向かわせるくだりも必要だったのだろう。死線を乗り越えた二人に愛が芽生えて未来に繋がるし過去にも繋がる。過去への影響とは最初のワームホール通過時の出来事で、アメリアが触れたのはその後高次空間から土星付近に送られる途中のクーパーであり、この二人が時間を越えて触れたというのは愛情の表れだということになる。この作品世界では‥!
そして臨終の間際で冷凍睡眠に入り父親を待ったマーフが遥か年下の「父親」に向かって諭すように「アメリアを迎えに行きなさい」と言う。その手段(宇宙船)も人材も他にいる筈なのに、あえて彼に行かせるのはやはり意味があるから。つまりクーパーとアメリアの間に生まれた愛が成就しないと未来に影響するんでしょうな。だから父親を導く役目を最後に与えられたのかと。「彼ら」から。

ともあれ、作品にどんな矛盾点があっても愛があれば乗り越えられる(スルー出来る)というのは真実かな。個人的にはTARSの造形が白眉でした。TARSのスピンアウトが作られたら最高なのですが。